ここのこの連絡網

そっ...と、言葉を置いていきます。( Don't think.. feel. )

そういうもの

 

 

 

随分長いことわたしは地面にいるのですが、昨夜、最近の状態について理由を再度確認してみることに。


今居る位置が「今」の影響を最も受けない場所だから、だって。人々の意識が拡大されている、そっち側(意識の世界)はとても揺れるし、荒れるから。逆に今は現実の位置に居た方が揺らぎの影響を受けにくいからだって。3次元て、個人、孤立の世界だから、それが逆にいい意味で活用されて守られるんだって。


おかげさまで現実の美しさに日々感動させられることがとても増えた様におもう。



この世界はとても綺麗だ。



この世界(物質の世界)は、情報を一本の糸で繋いで真実かそうでないかを決めようとするけど、そのパターンを脱することが重要なんだってよ。この世界で情報として見聞きできるものは、ただの「そういうもの」でしかないんだよ。


今、選択の極の際、究極の位置にきていて、だからどこもかしこも穏やかじゃないのよね。自分が知っていることや、どの角度からみても黒にしかみえないこと、(悪)そうとしか思えないことや、裏取りされた確かな情報という印籠、黒と断定したいことなど。そういうのが、ただ平らに「そういうもの」として見ることを遮る染み付いた“古いもの“なんだよ。


悪、黒、嘘、と思いたいものを決定したがるけど、すべてはただ「そういうもの」でしかない。


良いものだけを信じる。

それも半分を切り捨てている。


すべては「そういうもの」でしかない。


黒にみえて仕方のないものも、真実はそれだけではない。もっと視点を拡大させて、始まりの位置、原点へさかのぼれば、黒の真の姿も明らかになるだろう。

すべてはただ「そういうもの」でしかない。


自分自身も「ありのままでいい」と、そう自由に体現できるときは、すべてを「そういうもの」と、捉えることができたとき。


なぜならば、己の姿も、そのすべてを「そういうもの」として自由に表現することを許可していることになるから。


本物/偽者、正しい/間違っている、未だその視点から世界をみているものは、前進の歩みを牽引する援者でもあり、同時に歩みを踏み止める者でもある。


次の世界への“選択“は、強烈な矛盾が存在する場所にある。次の世界とは、両方を「そういうもの」として平らに受け入れた視点が見る世界のことだから。


すべてを見聞きして、尚、平らに、穏やかに、すべてを「そういうもの」として見ることのできるものが、大きく揺れ動く「今」という時の流れの中で、不動の軸を持ち、向かうべき方向を静かに見る目となり、その観測する視線が新たな流れの息吹となる。