ここのこの連絡網

そっ...と、言葉を置いていきます。

じゆうのつばさ

kokonoko

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周囲の様子をみると、繰り返してきた過去の癖や、外せなかったトラウマ的な記憶が消えていってるよ。


その解放の主舞台が現実の位置に広がってきているよ。自分を取り戻すとか、自分が定かになるとか、自分が分かるとか、言葉で表現するとそういう感じのことが内的世界で起きてる。


だから、もう人を騙せなくなってる感じ。嘘は存在できない。


だからね、(世間からヒンシュクを買おうがなんであろうが、(それも過去の記憶だから、))恐れず自分が思うことを表現していくことが大切なんだよ。


そう在ることが、ほんとうの自分に共鳴するものとの出会いを加速させるから。


そのままであることが価値となるよ。





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あなたへの手紙

kokonoko

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20250830


○○に意識を向けて書けるものは、やっぱり○○の魂に関係のあることが出てくるんだよね。わたしは何もないところに向けて書けないからさ、自分から自発的に「伝えたい」ことなんてないんだよ。向き合う相手の魂の求めが、わたしの言葉になってるだけ。


このメールも○○への返信のつもりで書いていたけど、ブログにのせておこうかなと思って抽象的な言葉遣いで書いてみた。窓口は○○なんだけど、途中からその窓の向こう側に繋がっている集合意識の束に向けて書いてる。



↓



最近、自分のやって来たことはこういうことでした、って、別の角度から今まで行ってきたことの意味が見えてくることが多いんだよね。これまでの振り返りをしている感じ。そのひとつをお話しようと思う。


重くて動かない集合意識全体を前進させていくために、先端の先の先のずーっと先の一点をずっとひとりで走ってきたけど、流れを切り開いていく先端の位置というのは、常に終わりと共にある位置でもあり、先端を走りながら、同時に最も重たい末尾といつも共にあるんだよ。仕組みは、“始まりと終わりはいつも繋がっている“ だから、いつも重たい集合意識を近くに感じながら走ってきた。


自分の走る位置がどこかなんて分かる基準があるのか、と疑問に思うかもしれないね。先頭を走っているくらいが人間としては気楽だと思うよ、まだ葛藤の余地があるから。


先端は、針の先端に常にいるような感じだよ。自分の体に前方向から一本長い針を突きつけられて、後方からも一本の針を突きつけられている状況を想像してみて。上下左右もわからない何もない真っ暗な空間で、体の前後に長く伸びる一本の針先が自分に向けられている状況を。息をするだけでも針先から血が流れるような状況なんだけど、それは先端は立ち止まることを許されていないから。できることはひとつ、自分を信じてひたすらに無心で走り続けるしかない、そんな感じだよ。常に、一歩は、最初の一歩で、この一歩で自らの体が串刺しになるかもしれないという恐怖と共にあり、歩み続ける最中、僅かに自分を疑いペースを乱せば針は容赦なく体を突き刺す。そんなギリギリの極を無心で走り続けるの。


無心ってね、自分を信じてる状態なんだよ。


それから、止まっているうちは上下左右もわからない真っ暗な空間なんだけど、覚悟して走り出すと遠くに一点の光が見えてくるんだよね。だからその一点の光を見失わないように走り続けることしかできないんだよ。止まったら光は消えてしまうからね。そのうち針が自分に向けられている恐怖もどこかへ消えて、気付いたら自分自身が一点の光になってた。


先端を走るということは、無であるということなんだよ。後ろに嫌気がさして切り捨てたり、置いていくなんて選択は先端の一点にはないんだよ。全体をひとつとして引っ張っていく必要があるから。とどまるもの、重たいもの、抵抗するもの、攻撃するもの、なんであろうと先端を走るということは自動的にそのすべてを含んでいる立場ということ。


先端の一点は無であること。そして自らの役割をただひたすらに行うことが、走り続けること。


先頭を走る人たちは、みんなそうなっていくよ。そうでなければ希望は現実にならないからね。


流れの先頭を走る集団は尖鋭部隊のようなもので、物質次元の常識では理解されない仕組みの中に人間として生き、魂が求める“役割“として存在する自分と、人間として存在する自分との狭間で常に葛藤をしながら走り続けてきた者たち。過酷で脱落するものも多く、欠けては補充をされて、全体を引っ張っていくために何馬力ものエネルギーを使い走り続けてきた者たち。


あなたたちの葛藤をわたしは知ってるよ。


自分が止まったら後がない、という緊張感と重圧の中でギリギリ糸を繋いできたね。


わたしは、流れが現時点で必要とされるところまでの役割は終えた。これより先は、現実の準備が整った後。一度現場から離れなくてはならなくて、今は現実への展開を見ている状態だけど、臨時で来る案件には対処している感じ。


今は地面にめり込んでいるくらい現実にいる。ここにいると現実の美しさも感じやすいけど、その他にもいろいろ感じることは増える。


で、今年のお盆は皮一枚残された(抵抗の)現状を目の当たりにしたわけだ。山の頂上付近は目が覚めてるんだけど、亡霊のように生きる集合意識の裾野の広さに改めて驚いたわけよ。山の半分じゃないよ、八割くらい寝ている状態。


しかし、これまでの状況と比べればこれでも皮一枚の問題程度だよ。やっと現実に近いこの位置まで到達したか..と、今は可能性しか感じない。


その集合意識には、聞こえていても聞こえない、見ていても見えないものがあるみたい。何が聞こえないのか、何が見えないのか、お盆からそれがとてもよく分かるのよ。ここの“現状“が分かるようにわざとそうされているんだよね、今。そこをなんとかしないと進まないから意識を向けさせられている。


そのことがあって、お盆からわたしの体に影響がでている。これは終わればパッと症状は消えてなくなる いつものやつ。


まず集合意識の視点は、「目に見えて分かる、現実で起きていること」の、その表層しか見えていない。人類の歴史のなかで、戦争や革命が起きたその背後に、エネルギー的な動きがあることや、悪魔と神の交わりがあって(ある視点で表現するとこうなるんだけど、闇と光でもなんでも良い)、その流れにそって人間が動き、物事を起こしてきたことなどが、音を消したように聞こえないみたい。現象の向こう側にある何層もの奥行きが無いものにされている。だから、ラジオのアンテナを合わせるように集合意識の耳に聴こえるように何度も調整して合わせる作業が行われたよ。


あとね、人間がまるで亡霊のように生きていること、形骸化された習慣をただ繰り返すだけの存在になっていることの原因のひとつでもあるんだけど、


まずイエスが神の子として人類の罪を背負って自らを捧げたことは、対価交換の法則に従った行為であり、それにより人類は救われたという結果になってる。イエスが人類全体という規模を包括する魂だったから、イエスが自らを捧げ生け贄になることで人類は救われたことになってる。別の言い方すると、人類はイエスの犠牲によって守護されているという状況をつくってる。悪魔はそれが気に食わないので、なんとかその関係性を切り崩したい。それで、イエスの方には手を出せないので人類の方にけしかけて、イエスの祈りを相殺しようとしたのよね。それが、人類が自分の欲望にのみ従い、我欲を満たすためだけに “奪う“ という行為。『与える』ではなく「奪う」ことはイエスの祈りからの解脱となり、それを行うことで人類が滅亡に向かうよう仕向けてきた。それは単純な法則なんだよ。


2000年だからわりと新しいカルマだけど、それ以前から続いているカルマを終わらせるための最後のカルマ。すべては無の “知りたい“ という “求め“ から始まっていること、その学びの仕上げのとき。


人類はそれを繰り返している。今の現実の世界は、“奪い合い“ そればかりじゃない?ほとんどの人間がやっていることで、それが当たり前の世界。


この仕組みが集合意識には理解できないみたい。その理解できない集合意識に何度もチューニングを合わせようと試みて、やっと繋がったんだ。


自分のためだけではなくて “何か“ のために自らを捧げる行為というのは、その “何か“ に向けられた祈りになっていて、捧げるという対価交換によってその “何か“ は捧げたものの大きさだけ対等に守護されるんだよ。これ仕組みだよ。


人類はイエスの祈りから自立しないとならなくて、自立のためには悪魔のやってきた相殺の仕方じゃなく、そうではなくて、イエスと同じ祈りを発現することで解放されるんだよ。(その解放は、イエスの解放でもあるよ。いつまでも甘えていてはいけないよ。)


自立、

それは人類すべての罪を背負って身を捧げるなんて大それたことじゃなくて、


私利私欲を満たすために損得勘定で生きるのではなく、自分以外の何かのために自分を使うこと、自分を与えるように生きること。


現代社会は、そういう人のことをお人好しの馬鹿というかもしれないね。人類は滅亡の坂をかけ降りてきた、その現状がその見方を一般論にしているだけだよ。


この世界の真実はそうではないからね。

それは死んで肉体を離れたときになって初めて分かること。人間はね、生きているうちに見聞きした実体験だけが、死んだときに持っていける成果なんだよ。生きているときはなんのことかさっぱり意味の分からないことでも、見聞きしたことは魂の成果になるのよ。


この話も、ここまで読めた “あなた“ の成果になる。


意識を向けてくれてありがとう。





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解放の主舞台が現実へ(やっと)

kokonoko

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20250817


どう説明すれば伝わるかわからないんだけど、“伝わる人“への連絡網だから簡単に書くことにする。


今年のお盆は、“解放“の舞台が3次元に展開されている。これまで流れを“前に進ませない“要素になっていた意識の世界にあった“抵抗“に繋がる問題は解消されていて、そこは前向きなんだけど、皮1枚の抵抗の力が残っていて、それがまだ3次元にあって抵抗が強い...


ここ一週間、時が止まっているような感覚です


この “時“ が止まった空間にあるものを言葉で表現すると


(何もしたくない、何も動かしたくない、)


空間が停止しています


その空間には肉体があるので、生きているだけで辛く


息をすることすらしんどい


しかし、停止していることに気付かなければ、現実はこんなもんだろうという認識になるのだろう


時の止まった空間には、目を逸らせるための興味の対象が山のようにあるからね、それらに意識が向いているうちはまず気付かない


3次元はとても重たい


人々の意識は “自分の行動“ に向いておらず

慣例、慣習を、ただ繰り返しているヒトガタの輪郭


行動に、魂がいないの


これじゃだめなんだよ

日本全体が同じ動きをするこの時期に、大多数の魂が肉体から外れた状態で行動しているから空間がこうなる


ここの状態がよくわかった

改めて驚いた


魂と肉体を直結させて行動しないとね


“かみもどし“ にも書いたけど、まず頭を空っぽにすること



2025年のお盆は “現状“ が露になった

山の裾野は思いの外広大で、ほぼ この様な状態ってこと


過去からの繰り返しを癖のように生きている人

頭が空っぽなんじゃなくて、真ん中が空っぽになってる人だらけ







3次元の抵抗が強いというのは確かにそうなんだけど


強硬な姿勢で抵抗しているんじゃなくて、亡霊みたいな感じなんだよね


どちらが霊界だよ、って感じ


3次元の人間の方が、ただのヒトガタの輪郭だけがぼんやりとあって意識はなく


これまでの繰り返しを、ただ繰り返している、


呼び掛けても無反応で、ぼやーっとしていて、まるで亡霊


見えない世界と現実の世界が反転している感じ


その、時が止まった空間がぶ厚すぎて、意識の世界からの呼び掛けがまったく届かない感じ


そこにあるのは


(なにもしたくない)


動かない、

この状況を指して抵抗と表現している




***




昨夜わかったこと


3次元に生きてる人間は、皆、自分は「生きてる」、時は「止まっていない」と思っている


しかし、日々繰り返している当たり前の日常が「時を止めている」ことになってる人がほとんどなんだよね


言ってること伝わるかな

起きて、仕事して、社会的義務を果たして、食べて、娯楽して、寝て、日々を繰り返して、息していることだけを 生きている ことにして誤魔化してるんだって


だから、今回こんな状況が露になってる


肉体と魂がズレていたり、魂が閉じ込められていたり、不在だったり、


その状態で生きていることを、生きているようで生きていないと表現しているよ。


魂が肉体のど真ん中にあり 心も解放された状態であれば、息をしているだけで魂は輝くし、何をしていても“生きている“ということになるってこと。



これが厳しいと感じるなら、ここより先は読まない方がいい。




***




昔に見たある光景を思い出す。

地球全体から繋がる “意識の糸“ を束ねた “意識の宇宙“ の果てに、見た目は苔のようなものがいびつに集まって、ぽつんと寂しく漂っていた。その時のそれは宇宙に漂う “残骸/ゴミ“ のようなものだったんだけど


その “苔のように漂うもの“ の意識が言うの


「わたしが何かわかるか?」って


『人間が日々何気ない選択をする際に「いらないもの」として軽視したり、疎かにしたり、切り捨てたりしてきた “もの“ の成れの果て、それが行き着く先』


『人間は、自らにとって最も重要で大切にしなければならないものをゴミのように扱い、偽りを然も宝のように選択をしていく』


『これは、

その様に捨てられた真実の成れの果て』


『これはひとりひとりの『真実』だから、意識/宇宙の彼方へ追いやられても、決して消えて無くなるわけではなく、ここでひとりひとりが目覚める時を待っている』


『あまりに長い時をここで待っている間に、こんな姿になってしまった...』


『輝きは失われ、枯れ果てた苔のような様相に..』


『わたしは固まり、ただ、漂うことしかできない.....』




わたしは、これらの『真実』を守ってきた


今こそあなたをその役割から解き放とう




ひとつひとつの “真実“ に、目覚めの時を


魂の息吹を、呼び戻そう




枯れた苔は、潤いを取り戻し、解き解れていく


たくさんの光の粒子を内包した透明なアメーバのような様相に


そこにある光の粒は、

あなたたちひとりひとりの大切な魂の欠片です


魂が欠けていては肉体に重ねようともズレが生じてしまう


魂の一部を切り刻み、自らの意思で捨ててきたことがこの状況を作っている



わたしはこの存在に会ってから、

これらを段階的に集合意識に戻していく役割を平行して行ってきた



***



岩のように固まり、停止している集合意識の沼に、裸で落ちていく

どこまでもどこまでも、沼の底に辿り着くまで無抵抗でなくてはならないの

沼の状況が、わたしの身にすべて浸透して自分と一体となり同化するまで進行していく


その過程を言葉で表現すると、自分の体を死に至らしめるほどの猛毒を入れて、自分の体内でその毒に対応する免疫を作るような感じだよ


そこで停止している集合意識は、その状態から抜け出す術がないの

方法が分からないから集団になって固まり、停止している

その集団を、その状態から解放するためのシステムを、自分を使って新たに作るんだよ


どんなに痛くても、自分を守ったら、あなたのことが分からないから

わたしのすべてを剥き出しで捧げ、痛いも辛いも苦しいも、そこに在るすべてを受け入れる

あなたに代わって、その辛い状況から脱するためのシステムを作るんだよね、自分を使って


固まり、停止する集合意識はみんな、魂が死を自覚するほど辛い瞬間で停止している。これを言葉で表現すると陳腐なものになってしまうね。魂が消滅寸前まで引きちぎられ、これ以上は無理だと立ちあがる防衛本能を突き抜けた瞬間で凍結されているような感じ。

その死の瞬間をわたしは何度も突破してきたよ。だから、死を自覚した魂の絶望を知ってるよ。人類の歴史に刻まれ、深遠に閉ざされ放置されてきた絶望の瞬間をいくつも抱き締めてきたからね。純粋なエネルギーとなり残されていた絶望という“純粋な猛毒“をわたしはこの身に受け入れてきた。


意識の世界に残されていた集合意識のかたまりは、あまりにたくさんあって複雑に絡み合っていた。これをこのままにしておくと現実への展開の流れに支障が起きるため。人間が知る由もない意識の最深部で起きていたことをお話しているよ。これはわたしの過去20年間の役割。そのすべてはタイミング合わせのために整えなければならなかった、下拵えのようなもの。必要だったから行ってきたこと。


人間の意識が作ったものは、人間でなければ変えられないんだよ。あまりに大きな絶望のかたまりが山のようにあって、みんな自力ではどうすることもできなかったんだ。以前はそれをそのままにしておくことを望む者もたくさん存在していたし。だけどね、もうそのままにしておくことはできないから来たんだよ。最終的にはそれぞれ個人の選択と自力でしかないんだけど、それすら難しい状態だったから。かたまりを、個々に解放するまでが20年の役割。選択の自由は、自立への一歩だよ。だけど自由は責任が伴うもの。ひとまとめになっていれば個の責任からも逃れられるからね、その個の弱さがこの状態を利用したい者との間で契約のようになって複雑化させていたんだよね。この複雑化の原因はそれだけじゃないけど、そういう一面もある。


その、最も長く放置されてきたために複雑、難解となり、一見すると微細なようだけど、輝きの源となる最も大切な一点にスイッチを入れてきた。


その最中に平行して、宇宙にゴミのように漂っていたみんなの真実を、集合意識に促していくことも同時に行われていた感じ。


それが仕上げの段階にきている


ひとりひとりが自らの魂を取り戻すという意思を持つことでこの流れは納まるんだよ。





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