人間の意識には「受け入れられる真実」と「受け入れられない真実」があるということを肌身で感じるここ最近です。
後者の方は もう放置で構わないという時期に来ています。
たくさんの真実が示されました。いつも気付きは身近にありました。
その “受け入れられる“ “受け入れられない“ の違いは、層のような分かりやすい形で表されるものではなく、まるい玉のあちこちに虫食いがあるかの様子です。
その虫食いの深さによって拒絶反応の強さが変わってきます。
一見、どんなにつるりと滑らかな玉でも、ある一ヵ所に突然深く抉られたように虫食いの穴が空いていたりします。
ここまでは「受け入れられる」けど、ここからは「受け入れられない」と抵抗をし、この世界の前進をとどめているのは『あなた』の意識です。
“前進“ とはいっても、新しく切り開かれるものというより『本来の姿を現す』だけです。
この世界は人間が思っているより、はるかに可能性に満ち溢れた世界です。
その “可能性“ というのは『本来の姿を現す』ことなのですが
それを阻止しているのが “人々の意識“ です。
『あなた』の “受け入れられないこと“ はどこにありますか。
不思議な話が好きでも、ありえない話が好きでも、わくわくするような未来に胸を踊らせていても、どうしても人間にはどこかに「そんなのあるわけない」「どうせ無理だろう」「そんなの妄想だ」と、可能性の芽を刈り取る鋭い鎌のような意識が存在します。
それは現実を生きていくために、バランスを取るための冷静な視点でもありますが、より軽くなるこれからの世界へ向けて逆にそれが重石になってきています。
だから世界には、人間の意識を柔軟にほぐすためにファンタジーという表現方法が存在する。漫画や小説、映画がそれ。
“ありえない世界“ に慣れさせるためだよ。
この世界はすべて『意識』だから。
だからね、たくさんの「ありえないこと」に慣れていこう。
90歳の御老人が小学生に戻った話はファンタジーですか?
骨が見えるほどの重度の怪我が数日で完治した話はファンタジーですか?
一夜にして立派なお城が建った話はファンタジーですか?
誰かの意識が地震や天災の引き金になっているという話はファンタジーですか?
無責任に放棄した『あなたの真実』を(=それは魂の根源たる力でもあるものを)あなたの代わりに守り続けてきた守人がいた話はファンタジーですか?
そのあなたの大切なものを守る守人を攻撃していた話はファンタジーですか?
攻撃をしていたのはあなたたち自身なんですよ?
あなたたちの最も大切なものを叩き潰そうと攻撃をしていたのは、あなたたち自身。
あなたの否定がある限り、その真実はすべて存在しないものです。
これからも盲目の世界に囚われたままでいいのですか?
こんなファンタジーのような話を聞いても、そうだったんだ~、へ~そんなこともあるんだ~、この世界は面白いなあ~、不思議だなあ~、くらいゆる~く肯定した気持ちでいることが、あなたの意識を虫食いなく玉のように美しくさせる秘訣なんですよ。
もっと子供のように、好奇心旺盛に、
フィルター無しで世界を見てほしいのよ。
それがこの世界の今後にとても大きな作用となり、前向きな影響を与えることになるから。
これまでの世界では疑うことが前提条件にいつもあ
ってそれが正義だったかもしれないけど、これからは信頼すること、委ねること、素直さ、純粋性、そういったものがとても大切になってくるからね。
なぜかというと、その様な意識を基軸とした世界を作っていかなくてはならないからだよ。