20240221
意識の世界にあった、人間にまつわる古くから続いてきたたくさんの岩のような塊が解けて、徐々に一枚ずつ皮のように剥がれていき、そこに在ったものがどんどんシンプルになり表に現れてきている。
それが今までと違うのは意識の世界で明らかになるのではなく、ぼんやりとした変化でもなく、現実の世界ではっきりと明確に変化として示されていること。
個人単位でもその変化に明らかに気が付くほどだと思う。
今、世界に表面化している現象の根源にあるものを“言葉“に表すと、『先生』だよ。
少し前は『あなたとわたし』がテーマになっていた。
これからの流れの方向性は「先生の柔軟性」が鍵を握っているよ。
“先生“というのは、誰もが見て分かる肩書きや権威を持った人のことだけを指しているのではなく、“誰か“より「情報」や「経験」や「知識」がある人のこと、興味のある分野があり、゙誰がよりも多くその経験を重ねてきた専門的な知識を持つすべての人のことを指しているよ。
だから、誰もが先生といえるし
誰もが、誰かの『先生』
何の先生かは様々だけど、「先生」は、他の“先生“の話に素直に耳を傾けられているのかな?
世の中の様々な対立は、そんな「先生」同士の対立だよ。
ただ、その゙先生゙同士の対立が世界をより良くすることにつながるし、前進、進化のためには必要なことではあるのだけれど、なぜ今そこが際立ち“表“に現れているかというと、「認め合う」世界へ向かうことが次の流れの方向にあるからだよ。
゙自分が絶対(正)“ この視点から世界を見ているから、お互いを認め合えないの。
単純なことなんだけど、それが分かっていても先生には越えられない何かがあって、それに執着してしまう。
更に、使命感を抱いてひとつのテーマに人生を捧げて向き合う人ほど、同じテーマを使命とする他の先生と仲良くできないことが多く、端から見ていて(勿体無いなあ)と思うこともおおい。
お互いの「自分が絶対」の視点から゙少しの違い゙が際立って見え、自分の世界を守ろうとする防御姿勢が対立になる。
なぜその視点に執着してしまうのか、
「学問」とは、ひとつの大きな山の、無数に存在する登山口から頂上を目指すものだから。
忘れてはいけないのは登山口は無数に存在するし、その中には大勢が登っていく道もあるけど、未踏の道もあるということ。
個人が、今まで誰も足を踏み入れたことのない道から登山を始め、頂上に至ったとき、他の登山道から頂上へ至った「先生」は、他の道から登頂した者を認めようとしないことが多い。
この山は“自分のもの“だと思ってしまうみたい。
そして、ちょっとの“違い“が対立のはじまり。
(本人は、この山を理解したい、制覇したいという純粋な意欲で高みを目指しているが、頂上に立った!と思った時点でこの山を理解したと思ってしまう。そして、そこで得た経験や知識にしがみついてしまうんだよ。しかし、頂上はいくつもあるということを知ることだよ。)
歩んできた道、そこで得たものだけに執着するのではなく、
『山そのもの』と『自分』を一体化するように認識できている「先生」が『先生の柔軟性』を備えるものなんだよ。
その山と共に呼吸をしながら自らの命を重ねていくの。
個人の“意識の在り方“が現実の世界にそのまま反映されて、それは現実の“すべて“に及んでいるということ。
ぶつかって、対立して、傷だらけにならないと分からないこともあるけど、そろそろ今までと違う新たな視点を受け入れてみる時期に来ているとおもう。
先生同士がお互いを認め合って協力したら、とてつもない進化を遂げて、見たこともない新しい世界を創造できるんだから。