ここのこの連絡網

そっ...と、言葉を置いていきます。( Don't think.. feel. )

金のベールを剥がす

 

 

 


数年前、一本の糸を辿るように見てきた ”流れ” の中に姿を現した、地球と人間に深く関係している “金“ goldが


= ”お金” と共通の情報を持っていて、


”金” を現実の世界に重ねると、それは金融や経済のことでもあり、わたし史上最も関心が薄く、その存在自体に馴染めなかった “お金“ のベールが剥がされたときの昔ばなしをする。


”お金” は、わたしにとって “大切なもの“ の上位にあるものではなかったし、“3次元とうまくやっていくために必要なもの“ くらいの認識だったけど、


”お金” は、3次元から人間を 「解放するもの」 なんだよ。


お金が “3次元から人間を解放するもの“ となるためには条件があって、それは “欲望を満たす糧としないこと“ なんだよ。物を、ただの物質として認識しているだけだと、お金を使って何かを手に入れる行為は、”欲望を満たす行為” に自動的になってしまうんだ。


たとえ無意識でも、見えないところでカウントされていると想像してみて。


物を、ただの物質として見るその感覚は、「自分」と「自分以外のもの」とを切り離した視点で世界を見ているからであり、その視点では物は無機質なものでしかなく、「自分」とそれ以外の 『すべて』 は分断された状態にあり、その状態だと、無意識で行う経済活動も、 ”お金” は= ”欲望を満たす糧” として自動的にカウントされ、その状態は3次元に囚われるということになるんだよ。


生きていくためにはみんなお金を必要とするわけだけど、お金がどの様な存在となるかは、扱う人間の意識次第ということなんだ。


「自分」と「自分の周りに存在するもの」は、えんぴつ一本だって『自分と一体となって存在するもの』なんだよ。だから、ありのままの自分を認め、愛することが = 使うお金を、自分への愛のエネルギーとして注ぎ巡らすことになるんだ。


お金の真の姿は、愛であり、光だから。

お金を真の姿に出来るかどうかも、人間次第だよ。


自分の存在を自らで承認する愛を抱けたら、無意識で行う経済活動は、自分への愛を世界に巡らせる行為であり、経済活動で得たひとつひとつの物は自分自身の現れであり、その愛(お金)は、光となってあなたの 「現実」 へ広がっていくよ。


意識がその様な在り方だと、物は劣化しにくく壊れにくい。


だって自分と一体となり、血の通った自分自身のようなものだから、共に生きているのも同然なんだよ。


その状態が、たくさんある “解釈の視点“ の中から焦点を合わせた、ある“ひとつの視点“ から見た ”3次元からの解放” という状態であり、3次元で『自由の翼』を手にするということなんだよ。



(お金はどんどん透明になり軽くなっていく。

人々はお金を ”使うこと” を意識しなくなっていくだろうし、この ”流れ” の向かう方向は、現実の世界では ”形の無い通貨” への移行なんだよね。それと同じ ”流れ” に寄り添ってもうひとつ世界があり、そこにはお金を主体としない世界があるよ。)




あなたは物質と対面しているのではなく、

物質に支配されているのではなく、


その真意は、

あなたの周りにある ”物質” は、”あなた自身” であり

あなたそのものの ”現れ” であるからです。


それが、3次元からの解放となります。


自らの愛で満たされた者は、

この世にあって、この世にいない存在となります。




無意識を意識することは、変化への大きな後押しとなります。


自主自立を目指す人間の ”可能性” を、これからも見つめていきます。

記憶も現実の一部

 

 

 


「自分は○○だから・・」と、自らにレッテルを張り、過去の記憶に執着して動けなくなっている人が多く見られます。


あなたの記憶に刻まれた過去の出来事は消せない事実ですが、今のあなたはもう過去のあなたではありません。


今の自分に気付いていますか?


今の自分はどんな自分ですか?


変化している自分を認めてあげてください。

今の、ありのままの自分を認め、心機一転、そろそろ前を向いてみませんか?


過去とお別れの時です。


あなたの歴史、そのすべてを抱き締めて

”ありがとう” と、

感謝と共に 今、解き放ちましょう。


ずっと一緒だった記憶の中の自分とお別れするのは名残り惜しいものですが、前に進むためには「これまで」にけじめをつけて終わらせなくてはなりません。




最近『終わらせたい』というキーワードが集合意識には人気です。


そこには2つの意味が含まれていて、ひとつは「逃げたい」という意味と、もうひとつは「始めたい」という意味です。


「逃げたい」は、目の前にある現実から目を背けたいから 今を ”終わらせたい” という願望から。


「始めたい」は、一刻も早く真の目的を達成したいから、繰り返される今を終わらせて ”前へ進めたい” という願望から。


前者は、自らの ”魂の道” を否定するもの。

都合の悪さから ”現実を理由に” その道からの逃避を望むもの。それが今まで ”終わらせたくない”  ”変わりたくない” という力に荷担をし、なかなか前へ進めず「遅延」に最も強く影響を与えてきたもの。


後者は、以前よりは増えて来ましたが少数です。現実の世界に肉体を持って生きる人間としては私欲が限りなく薄く(←元々持っている素質ですが、人間なので現実との葛藤の末、その様になっているのですが)彼らは風が通り抜けていくように透明です。”自分” という「個」のためだけには生きれず、望まれる『すべて』の代弁者として生かされ、この世界では変わり者とされています。


違う働きを持つ2つのエネルギーが、真意は違えど同じ願望を共有するなんてとても珍しいことです。


『終わらせたい』


ここに可能性があります。

なんでもありとは

 

 

 


ここでよく使われている「なんでもあり」 という表現は、自分好みの許容範囲に限らず、常識的で簡単に容認できることだけではなく、人間が生み出した混乱や、一般的に悪と思われれるものも含まれますが、


“なんでもあり”というのは、それらの “成りたい” という自由意思を ”認める” ということ。


「なんでもあり」として制限なく膨大に生まれてきた価値観は、宇宙を含めた “自然の法則“ からあまりにも大きくはみ出たものは自然淘汰されていき、また、形が整えられて思いもよらない新たなものに変化したりもする。


あまりにも大きく ”成ったもの” は一度打ち砕かれ、精錬されて再度結晶化されていくよ。

そこで "これから" にとって “望ましいもの“ となって新たに姿を現すんだ。


「なんでもあり」 というのは、その ”作用のすべて” を『可能性の芽』として、存在することを “認める“ ということ。


ここで伝えている「なんでもあり」は、無責任や無関心とはまったく意味の違うもの。


むしろその逆で、存在するすべてを『可能性の芽』として認めること。


その “可能性の芽“ が、目的を見失って暴走したり立ち止まっていたとしても、それすらもありのまま “可能性の芽“ として見つめていくこと。


「なんでもあり」 は、何があっても決して見放さない、見捨てない、見切らない、


この世界を『諦めない』こと。


『すべて』を、ただありのまま「見つめる」ということ。

一見すると冷たいように感じるその視線の奥には、大きな『愛』があるんだよ。



この世界は、人間と同じで呼吸をしている。


常に「拡大」と「収縮」を繰り返している。


拡大とは、様々な価値観が生まれている様子を表していて

収縮とは、それらが精錬されて進化をする様子のこと。


どちらも進化の過程といえるけど、拡大は繁栄、収縮は破壊の役割がある。


だから、世界が様々な価値観で溢れかえって爆発寸前という状況は、間も無く変化がやってくるということ。現象界の変化は一番最後。だから遅いのは仕方ないけど、人々の (今を変えたくない)という思いがなかなか重たくて、何度もその "寸前" をうろうろしてきたよ。


変化を後押ししたいと思うなら

“拡大“ する作用をありのまま “認める“ ことなんだよ。


対立ではなく “認める“ という位置からは、今 “ここ“ を越えた向こう側が鮮明に見えるものなんだよ。

そこは見通しが良く、向かうべき方向が良く見える。


”認める” というのは、両目を塞ぎ、両手放しで ”すべてを受け入れる” という従順で無責任な様じゃなく、

問題とされているものがあるのなら、それらを ”ありのまま見る” という視点のこと。


向かうべき方向を明確にして、その問題とされているものに対して ”対立” ではなく、より良くしていくための『これから』に向き合っているものが、これから求められているもの。