ここのこの連絡網

そっ...と、言葉を置いていきます。( Don't think.. feel. )

平らな視点

 

 

「悪」とされているものは、「善」とされているものから見たときの視点なのであり、悪とされているものを "ただシンプルに見る" という視点を持てれば、一方が悪とは言い切れないということは素直に受け入れることができる。


そこにはただ “役割“ があるだけ。


それが “意識を広げる“ ということであり、広げた意識の内で、目の前にあるものを平らな “心“ と “視点“ で見ることができたとき、進むべき道は明らかとなり、また、そこには『愛』しかないということにも気付く。


だって「善」も「悪」も『愛』から生まれたもの。


それを受け入れられるように意識を広げていくことも、人間の課題だよ。


“対立“が苦しいのであれば、善悪の “役“ から解放させてあげて。それが出来るのは、あなたの『意識』なんだよ。

“重さ“ も意識

 

 

 


重力は存在しない。重力ですら、人間の意識が創造している。学問は、強固な集団認識を構築するための手段となっている。“なんでも“ 受け入れられる意識の柔軟性を養うこと。それが人間の真の可能性を開いていくよ。


「重力はない」と知ったとして、例えば目の前に置いてあるコップは その場から消えることはないし、宙に浮くことはないけど、意識が変わればコップの性質は変わるし、コップが持つエネルギーは変化する。


“ここに存在するもの“ が持つ周波数が変わるということ。


ここに在って ここに無い状態となり、縛りが無いということは重力の無い状態なんだよ。それを見ている自分の変化は、見えている世界すべてを変えていく力があるんだ。

おおきな空から

 

 

 


見えていない わかっていない 自分の視点からだけ

見ようとしていない わかろうとしていない 自分勝手

そういうものだ にんげんとは

その見えない壁を越えていくのがにんげん


伝えたいこと 伝えられていない

それが溜まりにたまって 症状 となる

我慢している自分にも気づいていない


しかし 知らされることを拒んでいる

見たくないものばかりだから

どう思っているのか なにを考えているのか

気付きたくもなければ 知りたくもない


知りたくないんだ

知ろうとしていない


歩みよりを 問い掛けを 放棄している

だからわからない

自分の見ているものが真実だと


しかしその解釈には粗がある

見ようとしていない者の 見ているもの は

一面でしかない

その一面ですべてを見たと思っている


しかし そのままでいい

その視点を抱いたままでいい


あなたの知るべきことは

現実の現象の中に集約されて現れる 

その現象を しっかり見つめていけばいい