ここのこの連絡網

そっ...と、言葉を置いていきます。( Don't think.. feel. )

右と左の間に立ち

 

 

 

 

右手側にある耳障りの良い情報だけをダウンロードする時期は終わっていて、(それは探求心や好奇心を刺激されるような情報のことだけど)なぜその時期があったかというと、意識の拡大のために外に外に意識を向けていく必要があったから。だけど、耳障りの良い情報だけでは人間の内側に確実な光を認識することはできないんだよ。


左手側にある耳障りな情報と合わせてダウンロードすることで、その接点にいる人間の内側には、唯一無二の、自覚を伴った確実な光が生まれるんだ。

その光は奪われることもなければ、消えてしまうこともない。あなたが存在している限り永遠のものとなる。


耳障りな情報というのは、人間なら誰にでも備わっている「現状維持システム」を刺激するような情報のこと。あたりまえに「こういうものだ」と認識してきたものが、そうではないという情報が現れたとき、知ることを躊躇する自分を感じないか。

それが正しいか間違っているか、善か悪かではなく、それは可能性なんだよ。あなたの意識を「あたりまえ」という囲いから自由に解き放つための可能性。


光は、自分の外側に求めるものではなく、自らの内側に宿すもの。

光を外側に求めている場合、その光はどんどん取り上げられていくだろう。一時的な場合と、そうではない場合とがある。今はそういう時期だから、何かにすがっている人のすがりついてきたものが、どんどん取り上げられている。


なにかを『信じる』という時代は終わりだよ。信じるものは自分だから、自分の『ワカル』という感覚を大切に行動してね。


取り上げているのは、いじわるじゃないんだよ、ひとりひとりの内側に、自立した光を抱いてもらいたいからだよ。


もともとみんなが持っているものを、忘れないでほしいの。


その光を思い出せたら、あなた自身が『輝くもの』になるんだよ。



太陽は自分の外側にある光と思うかもしれないけど、太陽の光だけは全身に浴びることで内側に在る光を呼び覚ます力のある光だから、今の時期は特にたくさん日光浴をするといい。

「越える」ってこういうこと

 

 

 

2021_8_??


そういえば、話は変わりますが

フラットアース説というのがありますよね。

そのような説に関してわたしは特になんとも思いませんが、ちょうどテーマに合うようなので持ち出してみます。


結局みんな「概念」を超えようとしているんだけど、アレとコレとソレは同じことを違う視点で表現しているのだということが受け入れられずにいる。真実は一筋縄ではない ひねりのある世界観で、人間の脳が概念の枠を超えられないために、平らな地球という解釈になっている。


なにも間違ってはいないのに、「なにが」「これが」「どれが」『正しい』と主張し追究しているうちは、ありのままを見ることができないんだよね、と。


だって、みんな間違ってないんだから


平たいか、まるいか、そこが重要なことではなく


どんな人の、どんな話でも、否定せず、ジャッジせず、ただ静かに耳を傾けて聞くことができる状態、その行為、それ自体が、『アナタ』の概念の枠を超えたという証であり、その世界をアナタの意識の定位置とすることで、複雑な次元の構造を自然と認識するようになり、それらを受け入れている状態となる。


受け入れているかどうかなんて、本人に自覚はほとんどないよ。

知らぬ間にそうなっていた。そういうもの。


「健康」という状態は、分断がなく『繋がっている』という状態のことを指している。

その『繋がるもの』とは『何か?』と、人間は思考すると思うが、アナタ達が思っている以上に範囲の広いものであり、それと同時にアナタ自身の内にあるものでもある。


膨張と収縮が同時に存在する、

そういった物事の捉え方が、人間の思考では難しい。

だから感じるしかない。

とても身近なことに例えて当てはめて、思考を手放していき『感覚』の世界に意識を解放していくといい。


健康とは、生命が健全な営みを行えている状態を指している。

自分と自分の周囲が繋がり合い、調和した状態のこと。


不健康は、生命が不健全な状態であるために起きている。

自分と分断されたものが多く、孤立した状態であるから。


健康であるための『繋がり』を分かりやすく例えると、

『心の繋がり』のことでもある。


『心と繋がる』ということは、相手の見ているもの、聞いているもの、感じているものに対して、共に同じ視点に立ち同じものを見るということだよ。


向き合う相手が自分に向けて発する言葉は、その人物にとっての『真実の世界』を表現したもの。

それが事実か、正しいか、正しくないか、アナタの好みか、そうではないか、それは重要なことではなく


大切なことは、今目の前で向き合う「誰か」を、アナタがまるごと『認める』こと。


アナタがそれらを否定すると、行き場を失った『ひとつの世界』はアナタから分断され、その世界の存在を気付いてほしい、受け入れてもらいたいと、どこかに繋がろうとして、声が届くまで大声で叫び、激しく暴れ続けることだろう。


その姿は、現実的には社会性を失った手に負えない人と認知される。

行き過ぎた過度な自己表現と周囲からは評価される。


望ましいことは、すべての人間がすべての言葉を静かに聞けることができる状態だけど、それは難しい。


だから、

その段階に入った者が率先して行うこと。


率先する者の影響は周囲へ伝わっていく。


なんでもありと思えるってことは、すべてを見捨てないということなんだ。


大切なことは【良い・悪い】じゃないんだよ、

どんなに酷いものだとしても

静かに『すべてを見る』ということ。

静かに見るということは、アナタは『すべてを認識した』ということなんだ。

では、その、あなたにとって『すべて』と認識した世界の向こうに、アナタはどんな世界を望むのか。


それが最も大切なことなんだ。


そして今、各々のステージでそれが突き付けられているよ。


『すべて』の一部となる世界に執着するものは、望むものがない者とみなされ、その魂の選択により道が定まる。

どんな選択でも、すべての役割に意味があるんだ。




なんだかね、

まる ○ という形それ自体は「個」を表現してるもので、人間はその個体がどれくらいの大きさなのか?

それしか認識しないし、関心が向かないから、


人間の意識が拡張されていけば、地球の在り方も別の形で表される



平らなのは、意識は拡張しているのに物理的な視点に固執しているから。

意識と物質は、背中合わせの『ひとつ』を表している。


そのため、ひとつの方向にこだわるのは片方しか存在しないことになる。


まるい形が「個」を表しているといっても、

「個」は、正確には「孤立」「独立」したものではなく、どんなに小さな単位の「個」も、周囲と『協調』していて、支え合う『輪』のようなものだから、まるい。


○(まる)とは、孤立・単体の 『まる』 ではないんだよ。



意識はどこまでも広がっていけるもの


でも、どこまでいってもまるい ○


まるく広がっていく


広がれば広がるほど、円のフチは曖昧にぼやけて『すべて』と一体かのように融合してみえる


アナタから広がる意識は、アナタ自身に影響を与えるだけでなく、アナタを取り囲むすべてへ影響を及ぼす。



その意識の拡張を、挑戦し続けているのが人間だよ。


どこがゴールだって?


ゴールなんてないよ


終わりは、始まりだから


辿り着いたと思ったら、その先にまた新しい挑戦が続いている。


地球はそういう場なんだよ。


宇宙全体の進化を、ギューッ!と圧縮したような挑戦の舞台。


こんなに『すべて』の『可能性』が用意された場は、他にはないんだよ。



そのすべてが在り『ひとつ』なんだ


それを物理的な世界観で解釈しようとすると、人間の解釈では、平らに続く平たい世界となるだけ


なにも間違いじゃない

すべての主張は在っていいんじゃない?

と、おおらかな視点でいるといい。


今は、現実生活に直結した悩ましい問題があるね。

その(深刻な)問題のすべてを、おおらかな視点で受け止めていく舞台でもあるんだよ。


(そんなのんきなことはできない!と怒鳴られそうだけど。)

(深刻にしているのも人間の意識なんだけどな。)


世界の分断はギリギリのところにきている。

世の中の激しい主張や叫びは、これまでに分断され放置されてきた(人々の意識の)世界の訴えだよ。


『その段階』にある者は、どうか自分の役割を果たしてね。


すべてをありのまま見たうえで、自分はどんな世界を望むのか。


それが、今を越えるには とても大切なことです。

はじまりは いつ

 

 

 

ほんとうに新しいものは、人間の意識の中にある


それを表現した瞬間に、それは過去のものになる


形を持った瞬間に過去になる


だから、意識が先にあり


その意識を元にして、形は姿を現す


水のはじまりも、


源泉という形を見るうちは

それを見た瞬間に、川の流れの一部となっている


見えないところにあるもの

感じることでしか触れられないもの


それがほんとうの はじまり