ここのこの連絡網

そっ...と、言葉を置いていきます。( Don't think.. feel. )

勇敢な魂たちへ

 

人間は、証明や理由を先に欲しがる生き物だよ。

前進するために、確実に成功するという「証明」や、心に受けた傷を許すための「理由」を先に求める生き物だよ。

人間の思考は、そうでなくては不合理を受け入れられないから。


しかし、あちらの仕組みは その求めの真逆の展開で進んでいく。

まず自らで『決意をする』


苦しみや悲しみの記憶を まず先に自らで手放し『許す』ことを求める。


『許す』それも『解放』


『許す』

それは言葉で表現しきれるほど、人間にとっては簡単なことではないんだよ。

その状況の当事者となり『知る者』にしか、真の共感は難しいだろう。


自らが先に執着を『手放す』ことで、そこに隠された『真実』が開かれる。


人間はわがままだ。


自分を救えるのは自分しかいないのに。


自らでその場から一歩を踏み出すことでしか前には進めないのに、確実な「証明」や「理由」を先に求める。


恐れに触れず、

安心して進んでいきたいからだね。

でも、その安心に一体なんの価値があるのかな。

あちらの仕組みは、価値の無いものには手厳しいんだ。


自ら未知なる方向へ勇気を持って進もうとしない限り、ただただ時を横滑りし、有限の『生』を過ごすだけよ。



苦しみや悲しみ、恨みや憎しみ、怒りや心に受けた痛みの記憶は、まず先に自らを「被害者」の立場から解放しない限り、その影響によって表面化している問題や、身体的症状が真に癒えることはない。


魂に刻まれる深い傷に対して、意識の世界側から対処しようと課題に向き合うときも、同じ「重さ」の記憶を『心』で感じ、自らで受け入れていく体験を必要とする。


『受け入れる』と『許す』は同じだよ。

あちらの仕組みで翻訳すると同義語なんだ。


真の『解放』は、苦痛の記憶に裸で触れる覚悟が持てた時に訪れる。


そのためにあなたたちは、

繰り返しの『生』を乗り越えてきた

勇敢な魂たちなのだから。